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4の柱 地域共生

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■各支所地域の独自性を高めます!

長岡11地域がそれぞれ独立した自治を行っていける仕組みを作ります。

■交通網を拡充します!

独自性のある地域同士をつなぐための交通網を拡充します。

■コミュニティを再生します!

地域内の交流がより生まれる仕組みを作ります。

■災害に強いまちづくり

最新のシステムや技術を活用し災害に対策します。

NEWS
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自然環境との共存・地域における共生

里地、里山、里海、自然の恵みの宝庫 現在に生きる私たちの責任として自然、その境界にある里地、里山、里海を守り、次世代に渡す義務があります。長岡市民の共有資産という観点で、それらを資源として地域活性化に繋げられる新しい持続可能なシステムを創ります。長岡市は自然環境との共存に優先して取り組みます。 また、長岡市は平成合併により10の市町村と合併しており、また旧長岡市内にも様々な特色を持つ地域があります。これら各地域が独立した自治区のような意識でそれぞれの住民が地域の活性化を自主的な考える、そうした住民意識を醸成します。また一方で、各地域、長岡市全体では、皆がともに共生していくという意識も重要と考えます。長岡市は、住民意識を高めながら、地域の共生を図っていきます。

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コンパクトシティ化によって生じた町の分断

少子化といえども、中心市街地への一極集中のような構想であってはなりません。支所地域の意思を尊重、大切にしながら、それぞれの地域(3千人から3万人を単位)が持続できるしくみ創りこそが地方自治です。 平成合併により広大な長岡市が誕生しました。2004年の年明けから合併のための具体的な話し合いが始まり、住民アンケートや協議会で幾度も話し合いが重ねられました。初めから合併に好意的な自治体もあれば、そうでない自治体もあり、当時の協議会の記録を眺めると大変な労力が注がれていたことが想像できます。 賛否両論ありましたが、合併の交渉が進む最中の2004年、甚大な被害をもたらした新潟県中越地震で「これは皆で一丸となって復興していく必要がある」と、多くの方が考えたと思います。各市町村で合併する必要性が高まり、一気に合併へ進んでいったように思います。 そうして2005年4月1日に中之島町、越路町、山古志村、小国町、三島町が、2006年年1月1日に和島村、寺泊町、栃尾市、与板町が、そして2010年3月31日に川口町が長岡市に合併し、編成が完了しました。合併により近隣の町や村と一体になり、行き届いた教育、医療、介護、交通、行政サービスが可能になると期待されましたが、十分に効果が実感されていない様に考えます。 長岡市は支所地域、過疎地域を見捨てるようなことはしません。長岡市長は、各支所の長として、定期的に各支所に滞在し、支所職員、地域住民の声を直接に聴き、一緒に各地域の将来プランを創造するべきです。 各支所では、支所発展のビジョンを公募し、支所長、支所には権限を委譲し、支所の人事の透明化と公正無私の人事評価を実施していくことで、有能な市役所職員のやる気を引き出していきます。地域の皆さまとの意思疎通がしっかり保てる支所づくりに努めます。また支所に裁量的な予算をもたせるため、各地域の特産品・製品で集まったふるさと納税による寄附金はその地域で利用することを検討します。 支所の地域性を尊重し、それぞれ自治区の様な意識を住民にもって頂き、自主創造の気概が育つ地域づくりが大切です。 多くの過疎地域では、電気施設、水道施設など、インフラの老朽化が進んでおり、更新・維持コストが課題とされています。ただし、電気については、EV車を電池として活用し、各家にEVを利用して電気を届けることが可能です。水についても蛇口直結型浄水器の機能が向上しており、井戸水の安全安心な利用も可能となってきており、更に飲料用ボトルタイプのウォーターサ―バーの利用も可能です。通信技術やAIが整備されれば、遠隔で高度な医療や教育の提供も可能です。 コンパクトでなく、むしろ最新技術を最大限活用し、最小のコストで、スマートに、里地、里山、里海と共生を図り、可能な限り住み慣れた地域で、自分らしい暮らしを人生の最期まで続ける、その為に住民が自主的に活動することを目指します。 それぞれの地域に根付いた文化を大切に育むことが長岡全体の活力にも直結します。

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公共交通

長岡駅から川口地域、小国地域、寺泊地域へは、車でも30~40分、電車やバスを使う場合は、乗り継ぎを重ねなければならず、1時間以上を要してしまいます。免許を返納した高齢者はじめ、自家用車を使えない方にとっては中心部が遠い存在になっていますから、公共交通機関の充実を図らなければなりません。 平成の大合併により長岡市は近隣の市町村と一つになりましたが、その時に懸案事項の一つとなっていたのはやはり中心部である長岡駅へのアクセスでした。 当時の合併協議会では、それぞれの町から長岡中心地までアクセスをスムーズにさせる約束をしていました。ところが現在もその整備は進んでおらず、交通の不便さは当時とほとんど変わっておらず、合併によって市が大きくなり交通網が拡大したため、むしろ不便になってしまっています。 合併により近隣の町や村と一体になり、行き届いた行政サービスが可能になると期待されましたが、肝心の公共交通機関が十分な機能を果たせていないため、場所によっては十分な医療、介護、役所へ提出する諸々の手続きなどを行えない人がいらっしゃる状況に陥っています。 公共交通の確保で考えるなら、支所地域は小学校、中学校が統廃合により整備された為、多くの生徒がスクールバスによる通学をしています。 一方で路線バスがどんどん廃止されていく中で、お年寄りの通院がままならなくなっています。これを解消する為、スクールバスを活用するのです。朝学校へ生徒を送り終えたスクールバスに長岡市内の駅や大型商業施設、病院等までの地域住民の移動の確保をお願いするのです。 夕方は、スクールバスが生徒を自宅あるいは課外活動に送り届けた後、長岡市内の大型商業施設や駅病院等から地域住民の帰りの移動を担って貰うことで合併周辺地域の課題に取り組んでゆきます。 また山間地域を中心に、ロープウェイ(ゴンドラ)を移動手段として利用するのも一案と考えています。交通弱者である学生、高齢者に利用頂くのは勿論、観光客向けにも利用できます。ロープウェイは雪にも強いため、活用の検討の価値は十分あるように考えます。 機動系列車LRT(Light Rail Transit)は、今の長岡が抱える交通問題を解決する事業構想だと考えます。一般的な鉄道に比べて建設経費も少なく、街の移動には大変有効な公共交通機関になります。欧米を中心に広がり、日本国内でも富山や広島、宇都宮でも導入が進んでいます。さらにLRTは幅が狭く設計されているので速く走行することが可能ですし、天候にあまり左右されない利点があるため、冬のシーズンでも運行可能で、雪の悩みが大きく解消されると思います。 都心へのアクセスも長岡市の発展にとっては重要です。東京−長岡間は今新幹線で1 時間半程度かかりますが、現在直通便がありません。これが叶えば1時間ちょっとで移動できるわけですから、首都圏への通勤がより容易となります。 合併した支所地域には、山や海があり、好きな方々には最高の場所ですし、道路やLRTで繋げば市内は全て30分以内の距離になります。長岡市は広いですが、全て短時間で繋がる土地になります。交通事情を克服することによって長岡はより魅力的になります。

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地域コミュニティの再生

地域コミュニティの分断は、人の絆をも失ってしまう恐れがあります。少年時代に体験した地域の人々との温かい触れ合いが、現在失われつつあるのも、人口が減りつつあり、近隣の人々を身近に感じることのできない都市計画が進んだ結果ではないかと思います。 市場の競争原理は効率化において確かに不可欠ではありますが、地域コミュニティの中では、競争でなく、皆の助け合いの精神、共生を基本とすることが、真に住民の豊かさを達成する上で重要と考えます。 これだけ大きく広がった長岡に、中心部だけ大きな建物が並び、どんなに美しい外観をしていても、自分の家から通い辛ければ誰も行こうと思いません。 今の時代、建物は人寄せのために造るのではなく、その土地に住んでいる人の気持ちを汲んで整えていくことが大切です。ここに住む人がどういった生活をし、仕事をし、家族との時間を過ごしていくのか。想像した先に安定と安心がなければいけません。 自分の生活を考えた時に、まず家が必要になります。家があれば暮らしていくために仕事が必要、そして家族が安全に笑顔で暮らしていける環境があるか、子供のための補助はあるか、そんなことを考えながら皆さん人生を考えているはずです。 衣食住が安定していれば、そこは暮らしやすいところ。安全な環境であれば自然と人が増え、消費が増える。だから商業施設を作りましょう、もっと経済をまわしていきましょうとなっていきます。綺麗な大型施設が到達点でありません。住んでいる人の生活様式によって柔軟に変えて作っていくべきです。 つまり人生を考えたインフラ整備です。公営団地や、空き家をリフォームして提供し、安心して快適に住める場所を提供する。さらに、家族がそこで暮らしたときに、どんな笑顔になるのかを想像して皆さん移住します。何年も住む場所になるから、人生をしっかりイメージできるようにしなければなりません。 高齢に差し掛かると病院の存在がより重要になってきます。たとえ立派な病院になってもそこに行ける足がなければ意味がりません。大事なことは、地域全体で見守りサポートをしていく形を整えていくことです。長岡の人々は昔から隣近所との付き合いが深く、一人で歩いていても必ず誰か知っている人が声をかけてくれていました。今はだいぶ希薄になってきていますが、もともと助け合う精神はしっかりある土地ですから、再びその温かさを取り戻していきたいです。 高齢の方も、若い方も、誰かと助け合うことで元気が出てきます。そんなコミュニティの場と機会を作って行かなければなりません。

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「地域の茶の間」に見るコミュニティのあり方

長岡市のコミュニティ再生に参考になる場として、「2025年(令和7年)を目途に、高齢者の尊厳の保持と自立生活の支援の目的のもとで、可能な限り住み慣れた地域で、自分らしい暮らしを人生の最期まで続けることができるよう、地域の包括的な支援・サービス提供体制(地域包括ケアシステム)の構築を推進」するために厚生労働省が立ち上げた地域包括ケアシステムの一環として新潟市にある「実家の茶の間・柴竹」という空き家を利用したコミュニティハウスがあります。 河田珪子さんという方が先導して地域と市で連携して作られましたが、現在県内外「実家の茶の間」としてどんどん広まっています。 長岡市にもいくつかありますが、徒歩15分圏内で地域の方が立ち寄ることができる場所です。そこに来たら何をしてもいいし、何もしなくてもいい。利用者全員がスタッフになって、掃除や食事、大工仕事などを自発的に行います。もちろん保健師さんや看護師さんもいらっしゃるので、健康面や衛生面の管理もしてくれます。 近くの子供たちも遊びに来て、一緒にゲームや宿題もします。利用料も300円で昼食は食べたい人だけが別途300円支払う、食べたくなければ食べなくてもいいのです。運営は市の助成金に加えて寄付も多いそうで、地域の方が使わなくなった家具や電化製品を持ち寄って「実家の茶の間」が出来上がったそうです。 利用するルールもしっかりしていて「そこにいない人の噂話はしてはいけない」「勧誘はしない」「お互いのプライバシーを聞き出さない」など張り紙をしながら、そっと利用者に意識を持たせています。これらは全て対人関係において基本的で大切なことです。皆さんそれらをきちんと守り、前からいる方はもちろん新しく来た方も、皆が居心地のいいようにさりげなく気を配っておられます。 徒歩圏内に、自分たちが寂しくない人間関係を構築できる場所があることは大きな支えになりますし、近所の見守りによって個々の健康管理もしっかりできます。 こうした施設を活用して地域コミュニティを再生し、これまで家庭が果たしてきた子供の養育の役割や、高齢者への介護の役割を、この地域コミュニティが代替していくことが有効です。 全ての人々が長岡市民で良かった、長岡に住めて良かったと思えるコミュニティづくりに努めます。

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防減災対策、災害に強いまちづくりの積極推進

何よりも最優先すべきは、人命です。現在すでに着手又は整備予定の道路網の早期完成はもとより、災害時に陸路が遮断された場合を想定し、信濃川を中心とした水系の整備と相まって、ドローン等の新技術を活かした防災都市を創ります。また、防減災のため、地域全体を支援するシステムの構築により、人為的なミス等を最小限に抑えるしくみを構築していきます。 地域の共生の観点から、土木建設業者の育成強化を図り、災害時や除雪に迅速に対応するため、地域貢献度を要件にした総合評価型の入札制度を導入します。働く若者の労務単価の上昇に取り組み、災害復旧時に中心となる地域の土木建設業者における担い手の確保を図ります。 市役所内では、災害時に迅速な対応と連携が必要な土木農林部署を別々な場所に切り離すことを見直し、同一建物内とします。各支所の市民生活課には農林土木係を置き技師を配置します。

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柏崎刈羽原子力発電所

柏崎刈羽原子力発電所は、新潟県の柏崎市と刈羽村にまたがる東京電力ホールディングスの原子力発電所です。7基の原子炉を有し、合計出力は821万2千kWで、世界最大の原子力発電所の一つです。現在、福島第一原発事故を踏まえて、稼働を停止しています。同原発の6、7号機は、福島第一原発事故後につくられた新規制基準の審査に合格したとして、原子力規制委員会から認可(原子炉設置変更許可)を受けています。 長岡市としては、何よりも優先すべきは市民の命です。軽率な判断は危険で、安全安心が確保されるまでは再稼働を行うべきではないと考えます。 長岡市では西からの風が吹き、冬は強く吹くため、風向きや、風の強さに応じた避難方法、避難路の検討が必要であり、最新のシステムを構築して検討する必要があります。 こうしたことを踏まえたところで、長岡市民の意見を、事前了解権を有する新潟県にしっかり伝えていく必要があります。 また、UPZ(避難準備区域)内の7市町(長岡市、上越市、小千谷市、十日町市、見附市、燕市、出雲崎町)が、再稼働に対する事前了解権を持つべきとの意見もあり、長岡市も、しっかり検討をしていく必要があります。

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市役所の在り方

先ず市役所の人事評価の透明化を図り、市役所の職員の方々のやる気を引き出します。また市役所の30代前半の人材を集めた長岡市役所の統合参謀本部に当たる総合的な企画部署を新設し、そこで長岡市の60年後を想定した長岡市の長期マスタープランを作成します。その際には、テーマごとに民間の有識者の方々や、ベテラン職員より、経験に基づく意見や助言を頂きます。 次に、それぞれのセクションは、長期のプランに基づき、課題を洗い出し、計画的に優先順位の高い順にその課題に取り組みます。そして、これらの課題解決能力に基づいた透明性のある昇進、昇格、昇級等の人事評価を実施する事で、情実人事や恣意的人事、依怙贔屓等を撲滅してゆきます。 市役所の幹部は、皆が、管理者ではなく、意思決定者であり、変化の時代において前例は踏襲しない、という考えに切り替えていきます。

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苦労の歴史が生んだ米百俵の精神

新潟の県民性はさっぱりとしていながらも親切な印象を持たれており、また人間関係の距離感が心地よいといわれていますが、長岡は、新潟県の他の地域と比べるともっと人との距離感が近いように思います。 昔から家族ぐるみで関わっていますから、話さなくてもお互い分かり合えているところがありました。冬は朝になると雪が積もっているので、起きたらまず1時間か2時間雪かきをしなければいけません。また農家が多いので、みんなで協力して雪かきをして保存食を作り、食料を分け合って生きてきた歴史があるので、皆真面目です。 長岡市は、決して温暖でお金や食べ物に困らない地域ではなかったので、しかも冬には豪雪があり、DNAの中に、勤勉・倹約・貯蓄・合理主義・教育重視の精神が染み付いています。 反面、河井継之助のように新しいアイデアに飛び付くように、好奇心も旺盛な人材も輩出してきました。河井継之助は幕末の越後長岡藩牧野家の家臣だったのですが、江戸や長崎などを遊学し、陽明学や西洋の砲術を学んだ勤勉家です。 当時の最先端技術を見聞きし、西洋科学に影響を受け、故郷長岡を、場合によっては独立した街にするくらいの発想で近代化させることに尽力しました。 ところが戊辰戦争で長岡藩は負けてしまい、長岡藩も軍備を整えていたけれど、薩摩・長州藩が持ち込んだイギリスの最新兵器には歯が立たず、圧倒的な力の差で長岡は大敗し、河井継之助も重傷を負って志半ばで亡くなってしまいます。 完全な焼け野原になってしまった長岡を、今度は小林虎三郎や三島億二郎が立て直し復活させてきました。 戊辰戦争で飢餓状態になった長岡藩に、三根山藩から米百俵が送られ「みんなで食べよう」というところで小林がそれを止めたんです。そのお米を使って、学校を作って子供の将来に投資したんです。三島も小林と一緒に銀行や病院を建てることに尽力し、長岡の復興に尽力しました。 飢えよりも、時代に遅れを取らない教育に投資する気持ちを貫いたこの志が、今も長岡の人々の精神の根幹につながっていると思います。 この米百俵で作られた国漢学校では、海軍航空隊設立に尽力した名将・山本五十六も勉学に励みました。彼が残した、「やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ」という言葉は、「米百俵」から受け継がれてきた長岡共通の精神性でもあり、日本人の根本的な人間関係の表れていると思います。 山本五十六から話は少し遡りますが、金融の下地や石油の発掘成功で、長岡も石油精製やガソリンの生産で好景気になったのですが、再び第二次世界大戦が勃発します。長岡も市街地の8割が焼けてしまう空襲に見舞われ、再び焦土と化してしまいました。戦後復興に乗り遅れた長岡は、時代から取り残されてしまったような孤立した状況で日々を過ごしているわけです。そんな中、田中角栄が現れました。 長岡の歴史はいくつもの戦災や災害に見舞われながらも、人々の努力で復活を繰り返してきて作り上げられました。だから長岡の人々はどんな逆風にも負けない、強く賢い気質を備えているのだと思います。 田中角栄は「日本列島改造計画」っで、都会だけ発展させるのではなく、地方も発展させなければならないと、東京と新潟をつなぐ大事業を行い地方に産業をもたらすようにしました。 これまで山や川で分断されていた町や村を、トンネルや橋でどんどん繋げてコミュニティを結んでいくのですから、想像を絶する労力です。彼は道を繋げることによって経済と人が集まることを確信していたのでしょう。新潟だけではなく、日本中を道路や線路で繋ぎ、人々の暮らしを豊かにしたいという思いがありました。 私が子供の頃、周りの大人たちは皆田中角栄を応援していました。当時国内の景気が良かったこともありますが、砂利道が平らになり、綺麗に舗装されてどんどん変わっていき、トンネルや橋もものすごいスピードで整備されていきました。道路整備に関しては他の地方よりも進んでいたと思います。私が大学に入る頃には長岡は畦道でも綺麗に舗装されている状態でした。 田中角栄が作った道や橋は、親や子、またその次の世代に渡って使われることを考えながらできていきました。 今でこそ当たり前のように私たちは使っていますが、トンネルや橋が作られる前、人々は命懸けで山や川を渡っていたわけです。上越新幹線は新潟から港を通じて北朝鮮に行って、朝鮮半島と貿易をするための構想の下で造られましたから、スケールが違います。 河井継之助、山本五十六も合理主義的な部分がありました。2人とも県外や海外で勉強して新しいものを吸収し、故郷に戻って近代化に役立てている点で共通しています。小さい頃は保守的な「村の掟」の中にいて、その掟を皆が絶対的なものと思って過ごしている。村長や家長の意見は必ず従うような環境です。成長して外に出ると育ってきた世界と全く違う価値観や文化に触れることになります。 山本五十六もきっと同じような境遇で育っていたのでしょう。成長してから渡航し、今まで教えられてきたことの一部に、違和感を感じたことと思います。 もちろん彼自身にも保守的な部分があるのですが、長岡を出ると故郷の保守的な要素が時代遅れに感じ、新時代の技術や価値観を故郷に授けようと強く思ったのでしょう。 古き良きものを大切にしつつ、新しい物を取り入れる。こういった柔軟で潔い姿勢は、長岡共通の精神であり、何度も経験した災害や戦災から再起する力になっています。

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